今回の第1特集は西武鉄道新宿線・池袋線を中心に主力の一員として活躍中。そして、関東では東武8000系列と肩を並べるほどバリエーションが多いという西武2000系列を豊富な写真・解説文で細部まで余すことなく解説していきたいと思います。
車体は湘南型3扉という、101系など従来のスタイルを打ち破り、西武の車両としては国電63形タイプのモハ401形以来の20m片側4扉の通勤車となった。正面はこれまた久しぶりの貫通扉をもち、前面窓は10度の傾斜を持たせたパノラミックウィンドウ、側面は戸袋窓なし、2連となった側窓の上窓はバランサー付きの下降式、下窓は上昇式の2段式。新2000系が登場するまでは斬新な外観であったが、西武らしかぬスタイルとも言われた。
この2000系が整列乗車が乱れるのを承知で4扉を採用した理由は、当時の新宿線各駅停車はホーム長の関係から6両編成が限界であった為、扉数を増やして乗降時間の短縮をねらうのが得策と判断したためである。また、前面貫通スタイルの都合で運転台が狭くなった為、計器類をコンパクトにまとめ、運転座席には調節可能なバケットシートを採用するなど乗務員の居住性も改善されている。
一方車内は、座席高さは430mmで変わらないものの、幅が45mm広がって550mmとなり掛心地が向上したほか、荷棚受と吊手受が一体になったスタンションポールが林立する典型的な通勤車タイプとなり、ドア脇に立った乗客が着席した乗客と接触しない配慮がなされた。吹き抜け防止の為貫通路は551系以来の1200mmから旧型 国電並の800mmに狭められたが、貫通扉はドアチェック付きで各車1位側(西武新宿・飯能側)のみの設置となり、Tc1には設置されていない。また客室灯も増えた為、従来車に比べてさらに明るくなった。車内化粧板が薄茶色のコルク模様で、レンガ色の座席と相まって落ち着いた感じである。
足回りは電力回生制動付の界磁チョッパ制御装置と、回生ブレーキとを協調する全電気指令式電磁直通空気ブレーキ(HRD-1Rブレーキ)が採用された。主電動機は新宿線という路線形態から平坦線向き、しかも通勤用ということで101系より出力を抑えた130kW電動機を採用(101系は150kW)。界磁チョッパ制御ということで複巻式電動機となった(101系は直巻式電動機)。主制御装置はMMC-HTR20Dで、主電動機4個永久直列2群を直並列制御を行いつつ、他励界磁電流をチョッパ制御するものでコスト面を考慮した省エネ車である。
その他の主な機器としては、電動発電機(MG)は101系と同じ120kVAがM2・M4車に設備されたが、コンプレッサー(CP)は初めて水平対向式のHB-2000-CBとなり、以降他形式にも普及している。台車はM車がFS-372A(FS372の複巻電動機用)、T車がFS-072と101系や701系から10000系などにも使用されている代表的な台車である。
個々の特徴は後に記すが2000系は昭和54年までに6両編成17本が完成し、電気連結器を設けずに単独運用を新宿線で行ってきたが、58年に新宿線各駅停車の8連化を行うことになり、増結用として1M方式のクモハ2401形、クハ2401形両形式が新造された。
昭和62年に入り、昭和30年代から活躍している401系・701系の廃車置換計画が立案され、再び2000系の制作が決定された。しかし2000系の原設計から10年が経過しており、内容をすべて見直した新2000系が誕生した。
正面は各種標示器と標識灯を一体化し、また前面ガラスを1枚ガラスとしてこれらの周囲にブラックを配した全く新しいものとなった。車体は乗客の体位向上に合わせて側扉が50mm、妻貫通路・客室天井高さを10mm高くするとともに、側窓に1段下降式を採用した。左右寸法は従来の2000系と変わらないが、天地寸法が950mmと大型化し、戸袋窓の復活、化粧板の変更とともに非常に明るい車内となった。 腰掛座面高さを10mm下げ、奥行を20mm広げ、形状も変更し居住性の向上を図っている。
当初、新2000系は老朽車の置き換えを目的としていた為、新宿線系統のみに投入されていたが、通勤時間帯の停車時分短縮を目的として池袋線へも配属することとなった。
この新駅舎は、旧駅舎の北側に高架ホームを建設するという、五日市線としては初のエスカレーター装備、コンビニ設置の素晴らしく豪華な造りである。ホームは島式で、6両編成まで対応している。高架線は三内第一踏切付近から始まり、天神橋踏切は立体交差となった。
従来のホームは、1面2線のうち片方は4両編成しか入線出来なかった為に、朝夕の通勤時間帯には一部4両編成を使わざるを得なかったが、今後は6両編成化が可能となった。JR東日本の平成8年度事業計画にある、「五日市線の輸送改善」とはこの事であろうか。
更に、開業当日の踏切事故を起こした列車は祝賀電車として使われた編成であり、関連性が高いのでまとめて掲載する事とした。
時間 | 事柄 |
---|---|
0:00 | 近所のコンビニにて取材スタッフと待ち合わせ |
0:23 | 終電で武蔵五日市駅へ向かう。途中の主な踏切には夜中の回送電車に備えているのか、係員が2名組で待機している |
0:31 | 武蔵増戸駅で臨時の回送電車とすれ違う。通常は武蔵五日市駅に留置する2本の電車は、工事の為に拝島まで臨時回送される事になっている |
0:35 | 武蔵五日市着。最後尾車両は扉締切。酔っぱらいを駅員が4人がかりで降ろしている。旧駅舎最後の旅客扱いであった |
0:40 | 最終の回送電車が出発。いよいよ工事開始である |
0:44 | 旧駅舎の改札撤去工事、新駅舎への連絡通路設置工事開始。作業員は25名程度。また、高架化される都合で消滅する天神橋踏切の撤去工事も開始。こちらは作業員10名程度。更に信号・通信関係の作業も10名程度で開始された |
0:50 | 線路移設工事の現場に到着。重機を使ってバラストのかき出しが開始された。こちらは作業員数なんと100名 |
1:00 | 架線関係の作業を15名程度で開始 |
1:20 | バールを使用しての人力による線路移設の開始 |
1:33 | 本線と、新駅への線路との接続完了 |
2:10 | 旧線の架線を撤去 |
2:55 | ここからひたすら線路整備 |
3:20 | 新駅舎への連絡通路も着々と工事が進む。旧駅舎の改札は既に撤去が終わり、跡部分のアスファルト舗装完了 |
4:00 | 線路関係の作業がほぼ終了。踏切の復旧 |
4:15 | 地上作業終了。ひたすら片付け |
4:30 | 今頃になって、突然バール隊が出動。線路の微移動を行う |
4:50 | 架線工事の終了を待って全工事終了とした。線路封鎖解除 |
5:11 | 試運転列車が最徐行で進入 |
5:20 | 始発電車、数百人の作業員に見送られて出発 |
9:30 | 記念式典取材の為、再び駅舎へ向かう |
10:00 | 新駅舎を見物。コンビニ「ジェイショップ」がオープン。記念品を頂いた |
10:05 | 五日市郵便局の陰謀により台紙に記念消印の入った切手を買う |
10:30 | ホームでの記念式典をチェック |
10:45 | 祝賀電車の運転士・車掌に花束贈呈。その後テープカット |
10:52 | 祝賀電車出発。若干タイミングのズレはあったものの、くす玉が割られ、花火が上がる(201系武蔵小金井区第13付属編成) |
16:06 | 線内折り返しでひたすら走っていた祝賀編成の列車があきる野市内にある学校裏踏切で事故。武蔵五日市駅ではお祭り騒ぎなのに、肝心の五日市線が運休になってしまい、バス代行という悲しい事態に突入 |
17:00 | 編集スタッフが事故現場で状況を、拝島駅で事故列車を撮影 |
18:30 | 事故関連の取材終了。一応、これで全てが終わった |
目撃した編成は、第13編成基本6連+第2編成付属4連で、塗装の色あせなどから簡単に見分けがつくそうである。そこで翌日の10日、中央線を改めて調査したところ、第2編成は基本6連+付属4連の状態に戻り、武蔵小金井区から豊田方面へ試運転されたことが確認された。また、問題の第13編成については基本6連と、事故車を除いた付属編成(3両のみ)が武蔵小金井区で確認されたが、13日には第8編成と組んでいるのが確認され、基本+付属編成の組み替えは修理が終わるまで行われる可能性が高いと思われる。ただ、残りの3両については小金井区にぽつんと留置されたままである。今後も事故車については詳細を追ってみたいと思う。
確認日 | 基本編成 | 付属編成 |
---|---|---|
'96/07/09 | 13 | 2 |
'96/07/13 | 13 | 8 |
'96/07/14 | 13 | 8 |
'96/07/19 | 8 | 12 |
'96/07/28 | 1 | 12 |
'96/07/31 | 1 | 12 |
'96/07/31 | 12 | 1 |
問題のクハ201-81は、車体前面部補修・電動愛称幕交換・床下引き通し管交換・床下スカート交換・前面ジャンパ栓受け撤去等の作業を行い出場。電車区に留置していた残り3両との正規編成に戻り、7月28日には運用に就いているところを確認した。
その後、しばらくジャンパ無しで運用に就いていたが、10月16日にはジャンパ栓と受けが取り付けられたのを確認した。これで事故前の状態に戻ったと言える。
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